文字庚申塔|中妻組講中

文字庚申塔

林泉寺を出て、平方東京線を100メートルほど歩いた左手の角地に、庚申塔が一基、建っている。石塔型式は角型。造立は江戸後期・天保3年(1832)。台石には「中妻組講中」とある。
 
同行した尾川氏の話。

尾川氏

増林の上組地区には、笹原講・椎の木講・中妻講・上組講と、四つの庚申講がありました。

日月の銘

庚申塔の解説をする坂本氏

この庚申塔の特徴について、同行した坂本氏が解説してくれた。
 
「庚申塔の上部には、左右に『太陽と三日月』(日月=じつげつ)が浮き彫りされているのが一般的ですが、この庚申塔の上部左右には、『日月』『清明』と、文字が刻まれています」

坂本氏

「日月」「清明」と、文字が刻まれている庚申塔は越谷市内でも数が少なく、珍しいタイプだと思われます。


平方東京線を70メートルほど歩いて丁字路を右に折れる。

三基の石塔|個人宅

三基の石塔

個人宅の塀際に三基の石塔が並んでいる。家主の許可を得て、見学させていただいた。

土公神文字塔

土公神文字塔

向かって右手にあるのは、土公神(※4)文字塔。造立年代は不詳。石塔の主銘を保護するために、石のふたが付いている。二つの穴に指を入れて手前に持ち上げるとふたが開いて中の文字(土公神)が見えるそうだ。

※4 土公神(どこうじん)とは、土をつかさどる神。春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされ、その季節に土公神の居場所の土を掘り起こすと、たたりがあると信じられてきた。

水神宮文字塔

水神宮文字塔

向かって左端は、「水神宮」文字塔。石塔型式は駒型。江戸後期・嘉永7年(1954)造立。正面に「水神宮」と刻まれているとのことだが、劣化が進んで文字は読みとれない。

加藤氏

この水神宮文字塔は、古利根川の「ばば渡し」からここに移されたものです。


ばば渡しは、かつて古利根川にあった渡し場。越谷市斎場の前あたり。ばば渡しの跡地は、のちほど見学する。

文字庚申塔

文字庚申塔

真ん中は、山状角型の文字庚申塔。江戸後期・文化2年(1805)造立。正面の主銘は「庚申」。最頂部に「日月」が陽刻されている。左側面に「増林中組」のほか、講中世話人の名前がみえる。

三猿|台石

三猿|台石

台石には三猿が浮き彫りされている。

坂本氏

正面は聞かざるで、御幣のようなものを担いでいます。両側面には、小太鼓とばちを持った見ざると、両手で口をふさいだ言わざるがいます。

移動|古道

平方東京線と古道

平方東京線に戻る。しばらく歩くと、横断歩道の先で、道が二股に分かれている。右手の細い道は古くからある道。平方東京線に沿って200メートルほど残っている。
 
二股道を直進。平方東京線を進む。50メートル先にある丁字路を左折。

藪の中の木祠と石塔

木祠

小道を進むと、右手の藪の中に小さな木の祠があった。この祠の中には、不動三尊(ふどうさんぞん)を表わす梵字と「成田山」と刻まれた、江戸後期・天保13年(1842)造塔の文字塔が安置されている。
 
不動三尊とは、不動明王の左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を脇侍とした形。

釈迦三尊十六善神塔

祠の脇に、首が欠けた丸彫りの釈迦如来坐像を戴いた石塔がある。造立は江戸中期・延享3年(1803)。正面と両面に、釈迦三尊(しゃかさんぞん)と十六善神(じゅうろくぜんじん)などの名が刻まれている。
 
釈迦三尊とは、釈迦如来・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)の三尊。十六善神とは大般若経(だいはんにゃきょう)を守護する16の神々。刻まれている神名は割愛。
 
木祠の横の小道を通って次の見学先へ

移動|かつての通り道

小道

この小道は増林公園へと続いている。道と言われれば道に見えるが、あまり人が通っている気配は感じられない。

尾川氏

この道は昔はちゃんとした通り道だったんですよ。

えっ? けもの道みたいなこの道がですか?
 

秦野氏

この道は越谷市の道路台帳で正式な道路として登録されていますので、れっきとした道路で間違いありません。


尾川氏と私の会話を聞いてた秦野氏が、越谷市のすべての道路が登録されている「越谷市道路台帳」で、この小道をスマホに表示させて見せてくれた。

勝林寺の衆寮堂跡

勝林寺の衆寮堂跡

小道を抜けると十字路に出る。右に折れ、50メートルほど歩いて丁字路を左折。
 
現在、右手の角地(垣根の向こう側)は、墓地(花みずき東霊園)になっているが、越谷市郷土研究会・山本泰秀(たいしゅう)氏(以下・山本氏)によると、かつては、勝林寺の衆寮堂(しゅりょうどう)と呼ばれる僧侶が寄宿する建物があったと、案内役の加藤氏が教えてくれた。

とうかん山跡

とうかん山跡

増林公園に到着。山本氏によると、かつて、多機能トイレの裏手(上の写真の黄色い●印のあたり)に「とうかん山」と呼ばれた小山があった。

加藤氏

山本氏が、故・星野龍雄氏から聞いた話によりますと、この先の勝林寺に落武者(おちむしゃ)がやってきたので、寺で農夫の姿に着替えさせ、よろいや武者着(むしゃぎ)を、とうかん山に埋めたとか、とうかん山は、落武者がここで自害した墓である、などの言い伝えが残っています。

移動|古利根川へ

古利根川の土手道

増林公園を突っ切って古利根川右岸の土手道を左に進む。

ばば渡し跡

ばば渡し跡

100メートルほど歩くと右手の河川敷に木立が見える。対岸は松伏の上赤岩。かつてこのあたりに「ばば渡し」と呼ばれる渡し場があった。「ばば」の由来は、お婆さんが渡し場にいたから、との言い伝えもあるが、はっきりしたことは分かっていないようだ。
 
同行の尾川氏が昔話を披露。

尾川氏

私が子どものころは、古利根川は、渇水期には歩いて渡れたんですよ。


増林公園に戻る。

増林公園|トイレ休憩

増林公園で 10分間のトイレ休憩。時間は午後3時25分。出発から 3時間が過ぎた。3時35分、増林公園を出て、勝林寺に向かった。