無縁塚の庚申塔

二猿付き庚申塔に続いて、墓地内の無縁塚にある庚申塔を二基、調べた。

文字庚申塔

文字庚申塔

正面中央に「青面金剛」と刻まれた文字庚申塔。石塔型式は駒型。最頂部には雲に乗った日月が陽刻されている。他の墓塔とともにすき間なく並べられているので側面の銘は確認できない。
 
加藤幸一「大相模地区の石仏」(※7)によると、左側面に「文化」の銘が刻まれているとあるので、この文字庚申塔は、江戸後期・文化年間(1804~1818)に建立されたものと思われる。

※7 加藤幸一「大相模地区の石仏」平成16・17年度調査/令和元年9月改訂(越谷市立図書館所蔵)金剛寺「文字庚申塔」81頁

青面金剛像庚申塔

青面金剛像庚申塔

青面金剛像を主尊とした駒型の庚申塔。江戸中期・安永3年(1774)造塔。青面金剛は六手合掌型。最頂部に日月が陽刻されている。

邪鬼

邪鬼

この庚申塔も他の墓塔と並んですき間なく並べられているので、全体像は確認できないが、すき間からのぞくと、青面金剛の足の下に邪鬼の顔が見える。

脇銘

脇銘

右側面の脇銘は「願主」「おひき」「講中」の文字が確認できる。左側面は「安永三」の文字がなんとか読みとれる。
 
加藤幸一「大相模地区の石仏」(※8)によると、左側面の銘は「安永三歳甲午正月」で、正面には、日月・青面金剛・邪鬼のほか、二鶏と三猿も陽刻されているとあるが、すきまからは、二鶏と三猿を確認することはできなかった。

※8 加藤幸一「大相模地区の石仏」平成16・17年度調査/令和元年9月改訂(越谷市立図書館所蔵)金剛寺「青面金剛像庚申塔」81頁

見どころ

金剛寺の見どころを三箇所紹介する。

霊場標識

霊場標識

山門前に「八十八」と刻まれた標識が立っている。「八十八」から下の文字は石の磨耗によって読みとれない。
 
この「八十八」という文字は、新四国四箇領八十八箇所霊場(しんしこく・しかりょう・はちじゅうはっかしょ・れいじょう)の札所(ふだしょ)であることを示す霊場標識。
 
金剛寺の前身である旧・別府村の慈眼寺(じげんじ)は、新四国四箇領八十八箇所霊場の63番札所であった。

新四国四箇領八十八箇所霊場とは、

四箇所の領にある弘法大師像を祀った寺院88箇所を巡礼すること。一番札所は東京都足立区にある西新井大師。四箇所の領とは、①淵江領(ふちえりょう)…東京都足立区②葛西領(かさいりょう)…東京都葛飾区・江戸川区・墨田区・江東区③八条領(はちじょうりょう)…埼玉県八潮市・越谷市・草加市④二郷半領(にごうはんりょう)…埼玉県三郷市・吉川市――をさす。

六地蔵堂

六地蔵堂

六地蔵堂。江戸中期・享保元年(1716)に建立された六地蔵が安置されている。堂舎は昭和63年(1988)に奉納された。

太子堂

太子堂

聖徳太子像が祀られている太子堂。もともとは、別府村の隣村・四条村の妙音院にあった太子堂を昭和2年(1927)に再建したもの。
 
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏によると「太子堂には等身大の聖徳太子像が祀られていて、その像の中には、さらに体のない頭だけの太子像が胎内仏として納められている」(※9)という。

※9 加藤幸一「大相模地区の石仏」平成16・17年度調査/令和元年9月改訂(越谷市立図書館所蔵)「金剛寺」81頁

胎内仏伝説

江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に、次のような太子堂のいわれが載っている。

江戸時代、首だけの太子像(胎内仏)は、ことに霊験あらたかという評判で、遠く離れた千住宿(現在の足立区北千住駅周辺)に移したところ、千住宿や地元の四条村で、病気や災いをこうむる住民が多く出たため、これは太子の意に反することだったとし、元の妙音院に戻した。

※10 (原文)「聖徳太子の自作を腹籠りとす、頭計にて體はなしと云、霊験著しく先年故ありて足立郡千住宿へ移せしに、當村及び彼村の者多く病災に罹りしゆへ、霊意に適はざるならんとて、元の如く當村へ復せりといへり」(出典)『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「四條村 妙音院 太子堂」175頁

金剛寺|風景写真

境内|金剛寺

金剛寺の風景を写真に収めた。次のページに掲載。