鷹匠橋

鷹匠橋

鷹匠橋(たかじょうばし)に到着。昭和5年(1930)に、この場所に架けられた。それまでは、この場所には橋は架かっていなかった。現在の橋は、昭和60年(1985)3月に架け替えられた。

昔の風景写真

昔の新方川の写真

橋の中央で、新方川上流の景色を望む。左手(右岸側)は花田地区。右手(左岸側)は増林地区。ここで、案内役の秦野氏が、自身で撮った昔の貴重な写真を見せてくれた。

案内役・秦野氏

古川の自然堤防が残っていた証拠の写真です。


河川改修が行なわれる前の鷹匠橋から新方川の上流を撮った風景。ちょうどこの場所と同じところから撮影したもの。写真の左手に、古川(元荒川の旧河道)跡と自然堤防が写っている。かつて耕地だったところは住宅化されてしまったので、当時の様子を知る貴重な資料だ。

鷹匠橋の由来

鷹匠橋から新方川の下流を望む

上の写真は鷹匠橋から新方川の下流を望んだ風景。
 
同行した加藤氏が、「鷹匠橋は、もともとは現在の場所から150メートルほど下流(花田第一樋門の西隣)にあった。当時の橋は、人がひとり通れるくらいの欄干(らんかん)のない土橋だった」と、教えてくれた。その土橋は今はない。
 
鷹匠橋の名前の由来について加藤氏が話をしてくれた。

加藤氏

明治41年(1908)に、大林にできた宮内庁(当時は宮内省)の鴨場に勤める鷹匠(たかじょう=鷹を訓練する人)が、鴨場のほうからやって来て、土橋を渡って、対岸の増林村で鷹の訓練をしました。「鷹匠が通る橋」ということで、「鷹匠橋」と呼ばれるようになりました。

移動|スナッカラ地蔵へ

市道

鷹匠橋をあとに、新方川緑道(右岸側)下の市道を歩いて、最後の見学先(スナッカラの地蔵)へと向かった。

スナッカラの地蔵

スナッカラの地蔵

スナッカラの地蔵に到着。鞘堂(さやどう)の中に、お地蔵様(スラッカラの地蔵)と、三基の石仏が置かれている。

案内役・秦野氏

「スナッカラ」は「すなかわら」(砂河原)が訛(なま)ったものと思われます。かつてこのお地蔵様があったあたりは、地元では「スナッカラ」と呼ばれた耕地でした。スナッカラ(すなかわら=砂河原)の地にあったから「スナッカラの地蔵」と呼ばれるようになりました。

砂河原にあったときの写真

昔の写真

案内役の秦野氏が、砂河原にあった当時のスナッカラ地蔵の写真を見せてくれた。現在、鞘堂に並んでいる石塔は、当時と同じ順番に並べられていることがわかる。

花田の地蔵伝説

スナッカラ地蔵

案内役・秦野氏

「スナッカラの地蔵」(花田のお地蔵さま)には、舟運での移動中に舟が動かなくなった結果、砂河原のあった当地で安置されたという伝説があります。

花田の地蔵伝説については加藤氏が「花田のお地蔵さま(スナッカラ地蔵)」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/327.pdf

雨水幹線の暗渠

雨水幹線の暗渠

スラッカラの地蔵をあとに、新方川緑道に戻る。新方川へ向かう歩道は暗渠になっている。

案内役・秦野氏

江戸時代前期に直道化された、かつての利根川本流であった花田地区の元荒川の旧河道は、現在も雨水幹線の暗渠として再利用されています。


正面前方に花田第二樋門が見えてきた。

花田第二樋門

花田第二樋門

花田第二樋門の前で、案内役の秦野氏が、1985年(昭和60年)、新方川の区画整理が行なわれていたときに、スラッカラの地蔵を撮った写真を見せてくれた。今の場所に移転される前の写真である。
 
なんと、お地蔵様のななめうしろに、この花田第二樋門が写っている。これもたいへん貴重な写真だ。おそらくこの景色が写っている写真を持っているのは、秦野氏のほかにはいないと思われる。
 
続いて、スナッカラの地蔵と石仏が、もともとあった場所に案内してもらった。

スナッカラの地蔵跡地

空き地

スナッカラの地蔵跡地に到着。今は空き地になっている。秦野氏が、自身で撮った(1980年代前半の)写真を見せながら、加藤氏が、かつてスナッカラの地蔵があった場所に立って、位置を教えてくれた。

秦野氏は、1980年代前半と、区画整理が始まった1985年当時に撮影したスナッカラの地蔵の写真をホームページで公開している。リンク先を以下に示す。
http://hatazoku.c.ooco.jp/sunakka1.htm
http://hatazoku.c.ooco.jp/sunakka2.htm
写真の無断コピーは著作権侵害(犯罪)にあたるので厳禁!

 
本日の見学はこれで終了。帰途についた。

花田三丁目バス停

花田三丁目バス停

花田三丁目バス停(茨急バス)に到着。ここから終点の北越谷駅まで乗車。

若色氏と秦野氏

若色氏と秦野氏

今回のツアーに同行した、越谷住まい・まちづくり協議会の若色(わかいろ)会長が、ここで別の場所に向かうということで、案内役をつとめた越谷市郷土研究会・秦野氏とのツーショット。
 
越谷リバーウォークは両氏の尽力によるところが大きい。両氏なくしては実現しなかった。若色氏と秦野氏には、心からお礼申しあげます。

解散|北越谷駅東口

北越谷駅東口

12時50分。北越谷駅東口に到着。ガイドツアー責任者をつとめたNPO法人越谷市郷土研究会の副会長・秦野氏のあいさつのあと、13時ちょうどに解散となった。所用時間およそ 4時間20分。歩いた距離は約 7キロ。歩数およそ 1万歩。
 
越谷市郷土研究会〈地誌研究倶楽部〉巡検兼越谷リバーウォーク(Bコース後半)ガイドツアーは、これにて終了。

後記

資料

今回のツアーでは、越谷警察署前遺跡と謎の上屋敷跡など、ひとりではなかなか探せない場所に連れて行ってもらったほか、案内役の秦野氏が、自身で撮った40年前の写真をたくさん見せてくれたので、風景の変わり具合を知ることもできた。貴重な体験ができた。

関連記事

今回のガイドツアーは、越谷リバーウォークBコース後半でしたが、2022年11月2日に行なわれたBコース前半の様子は下記の記事にまとめてあります。

越谷リバーウォーク|2022年11月2日
参考文献

本記事を作成するにあたって、石仏や石塔の年代や碑銘については、越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏の調査報告書 ◇「大相模地区の石仏」平成16・17年度調査/令和元年9月月改訂(越谷市立図書館所蔵)◇「増林地区の石仏石塔」平成11・12年度調査/令和4年(2022)改訂(越谷市立図書館所蔵)と照らし合わせた。

関連リンク