勝林寺

貴重な墓塔

勝林寺の墓地で貴重な墓塔と珍しい墓標を調査した。調査は細心の注意を払って慎重に行なった。

越谷最古の墓塔

宝篋印塔墓塔

江戸前期・元和2年(1616)銘のある宝篋印塔墓塔。加藤氏によると「この墓塔は、越谷市最古と断定してよい」とのこと。
 
またこの墓塔について加藤氏は次のように述べている。

この元和2年(1616)銘のある宝篋印塔墓塔は、50年前に明治大学教授の故・荻原龍夫氏が、『越谷市史』編さん準備のために、膨大な時間をかけて市内全域の石塔を調査し、その中で苦労して見つけたものです。
 
その後、越谷市最古と断定してよいものか私も気にかけて調査しましたが、それより古い墓塔は見つかっていませんので、断定してよいと思います。この機会に、ぜひとも荻原龍夫教授の名前を知っていただきたいと思います。

一葉観音像付き開基塔

一葉観音像付き開基塔

一葉観音(いちようかんのん)が陽刻された墓塔(開基塔)。江戸前期・寛永元年(1624)と、江戸後期・寛政9年(1797)の銘が刻まれているが、加藤氏は「造立は寛政9年ではないか」としている。
 
石塔に「開基」の文字が確認できる。開基は、禅宗では寺院に大いに貢献した在家の信者をさす。

一葉観音

一葉観音像

一葉観音とは、大海に浮かぶ蓮の花の上に安坐(あんざ)した姿で描かれる菩薩。中国での修行を終えた道元が日本に帰国する途中、暴風雨に遭遇し、観音経を唱えたら一葉観音が現われ、風雨がしずまり道元を救った、との説話がある。

加藤氏

一葉観音像が刻まれた石塔は珍しく、越谷市内ではこの一基しかないと思われます。

「祖師西来意」文字塔

「祖師西来意」文字塔

「祖師西来意」(そしせいらいい)の銘が刻まれている文字塔(上の写真中央)。石塔型式は板碑型。江戸前期・寛文元年(1661)造立。

祖師西来意

「祖師西来意」の銘

風化が進んで文字はたいへん読み取りにくい。
 
「祖師西来意」とは、禅宗で修行者が悟りを開くために課題として与えられる公案(こうあん)のひとつで、禅宗の開祖・達磨大師(だるまだいし)が西のインドから中国にやって来たのはどういう意味か、という問題。
 
石塔の脇銘に「寛文元年」「辛卯八月吉祥日」の文字が確認できる。

加藤氏

「吉祥日」の文字が見られますので、これは墓塔ではなく、公案に関する信仰上の貴重な石塔です。この石塔を建立した施主の禅宗(曹洞宗)に対する信仰の深さがうかがえます。

六十六部廻国塔

六十六部廻国塔

江戸中期・宝暦5年(1755)造立の六十六部廻国塔。正面の主銘は「奉読誦大乗妙典廻国供養塔」。全国66か国の霊場を巡って大乗妙典(法華経)を奉納した記念に建てた供養塔。脇銘には建立年代を示す「宝暦五乙亥天」「十一月吉旦」の文字が確認できる。

烏八臼の墓塔

勝林寺には、越谷市でいちばん古い墓塔のほかに、烏八臼(うはっきゅう)の文字が刻まれた珍しい墓塔が二基ある。

烏八臼の墓塔|寛文7年

烏八臼の墓塔

烏八臼の文字(上の写真の黄色い○印)が主銘の最頂部に刻まれている墓塔。江戸前期・寛文7年(1867)。烏八臼の文字の下に「為応順禅定尼菩提也」とある。
 
加藤氏によると、烏八臼は「ついばむ」という意味の漢字で、この銘文(〔烏八臼〕為応順禅定尼菩提也)は「応順禅定尼のためについばむ菩提なり」と読む、とのこと。

烏八臼

烏八臼の文字

上の写真の黄色い□印が烏八臼の文字。「鳥」「八」「臼」の三つの字からなっている。烏八臼は、ほぼ曹洞宗の墓標にかぎって見られるという。
 
烏八臼は、記号もしくは鳥と八と臼の合字、というのが定説になっているが、それは誤りである、と加藤氏は指摘する。

加藤氏

烏八臼は、記号や合字ではなく、「ついばむ」という漢字です。「広漢和辞典」(大修館書店)など、詳しい漢和辞典にも出ています。「鳥に死骸をついばませた鳥葬の風習が語源の根底にある」と考えています。

烏八臼の墓塔|寛文6年

烏八臼の墓塔|寛文6年

烏八臼の墓塔。江戸前期・寛文6年造立。石塔の形は板碑型連碑。向かって左側の碑面最頂部に烏八臼の文字(上の写真の黄色い○印)が刻まれている。

烏八臼

烏八臼の文字

烏八臼の文字を拡大した(上の写真の黄色い□印)。劣化して読み取りにくいが、「鳥」「八」「臼」の文字が、かろうじて確認できる。

烏八臼に関する加藤氏の論考

越谷市郷土研究会・顧問の加藤氏は、烏八臼に関する論考「烏八臼の石仏―『鳥八臼』というべきか?―」を著わしている。以下 URL を示す。
http://koshigayahistory.org/456.pdf

 
勝林寺の石仏・石塔の調査はこれで終了。