石塔|用水路脇

文字塔|用水路脇

田んぼを通る二つの水路に挟まれた地点に小さな石塔がぽつんと立っている(上の写真の黄色い○印)。正面前方には、リユース展望台や新方川水管橋が見える。このあたり(増林)は、昔と変わらぬ広大な田園風景が広がっている。

「権現宮」文字塔

「権現宮」文字塔

正面にまわって石塔をのぞくと「権現宮」と刻まれている。石塔の形式は笠付き角型。江戸中期・明和4年(1767)造立。左側面には「明和四丁亥年」、右側面には「八月吉日」とある。
 
越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏によると「かつてこのあたりには清伝寺という寺があった」という。江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』(※2)にも「清伝寺」の名前が載っている。

※2 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「増林村」の項(179頁)に、「清伝寺 林泉寺末なり、真城山と号す〔……〕本尊阿弥陀を安ず」とある。

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たんぼ道を通って、城之上橋(しろのうえばし)を渡り、新方川の右岸側に入る。

城ノ上稲荷神社

城ノ上稲荷神社|越谷市増林

城之上橋から100メートル先を斜め左に入ると、城ノ上稲荷神社に着く。住所は越谷市増林6006。赤く塗られた木の両部鳥居(りょうぶとりい)。板の額束には「正一位稲荷」と彫られている。神域は狭いが神々しい。

加藤氏

現在は、「城ノ上」(城之上)は「しろのうえ」と読まれますが、昔は「しろのえ」と呼ばれていました。(越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏)

二基の石仏を調査

二基の石仏を調査

境内に並べられている二基の石仏を調査した。

「青面金剛」文字庚申塔

「青面金剛」文字庚申塔

「青面金剛」文字庚申塔。石塔型式は山状角型。江戸後期・寛政12年(1800)造立。正面中央の主銘は「青面金剛」。最頂部に「日月」が陽刻されている。左側面に「寛政十二庚申年」「初庚申日」、右側面に「武州崎玉郡増林村」「城之上組」とある。

台石|三猿

台石|三猿

石塔下の台石の正面中央に「聞か猿」が浮き彫りされている。その下の台石には「言わ猿」と「見猿」が浮き彫りされていて、両端に「講中」と刻まれている。

道標付き「馬頭観世音」文字塔

道標付き「馬頭観世音」文字塔

道標付き「馬頭観世音」文字塔。石塔型式は駒型。正面の主銘は「馬頭観世音」。最頂部に、馬頭観音を表わす梵字「カン」が刻まれている。

道しるべ

道しるべ

左側面に「こしかや」(越ヶ谷)、右側面に「ふ動道」とある。「ふ動道」(不動道=ふどうみち)は、相模町にある大相模不動尊(大聖寺)に続く道のこと。越谷市内には「不動道」と呼ばれる道がいくつかあった。

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続いて千代田橋(ちよだはし)へと向かった。

千代田橋|新方川緑道

新方川緑道

千代田橋から新方川右岸側の遊歩道(新方川緑道)を30メートルほど歩くと、土手の右下に、小さな鞘堂(さやどう)が見える(上の写真の黄色い○印)
 
新方川の対岸(左岸側)に見える塔は、リユース展望台。正面前方に見える橋は増森橋(ましもりばし)。

鞘堂|三基の石塔

鞘堂

鞘堂に並べられている三基の石塔を調査。

「馬頭観世音」文字塔

左端は、江戸後期・天保13年(1842)の「馬頭観世音」文字塔。石塔型式は山状角型。正面の主銘は「馬頭観世音」。左側面には「天保十三寅年十月吉日」、右側面には「増林二子曽根」の銘が確認できるほか、寄進者の名前が刻まれている。

加藤氏

増林のこのあたりは、昔は二子曽根(ふたごぞね)と呼ばれた地で、千代田橋は、以前は二子曽根橋(ふたごぞねはし)と呼ばれていました。また、新方川は、古くは千間堀(せんげんぼり)と言われました。(越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏)

主尊不明の石塔

主尊不明の石塔

真ん中の石塔は主尊不明。表面を削られたようにも見える。造立年代も分からない。

道標付き「水神宮」文字塔

道標付き「水神宮」文字塔

右端は「水神宮」文字塔。石塔型式は駒型。江戸後期・文化3年(1806)造立。正面の主銘は「水神宮」、脇銘は「文化三丙寅年正月吉日」、右側面には願主の名前が確認できる。
 
この文字塔は道しるべも兼ねている。正面に「向ふどふミち」、左側面に「橋向左ばゝわたし道」(※3)、右側面に「松ぶし道」と刻まれている。

※3 左側面の銘は、鞘堂の囲いが邪魔になって、正確に読みとれなかったので、越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏の調査報告「花田・増林地区の石仏」平成16・17年度調査/平成31年7月改訂(越谷市立図書館蔵)「道標付き水神宮文字塔」77頁と照らし合わせた。

道しるべ

道しるべ

「松ぶし道」は、松伏に向かう道のこと。「向ふどふミち」(向こう、不動道)とは、橋(二子曽根橋=現・千代田橋)を渡らずに、道を南に向かうと大相模不動尊(大聖寺)に通じる、という意味。
 
「橋向左ばゝわたし道」(橋向こう左、ばば渡し道)とは、橋の向こうの二股道を左に行くと、古利根川にある「ばば渡し場」に通じるの意。当時は橋を渡ると道が二股に分かれていた。今はない。
 
ばば渡し場は、かつて、増林村と対岸の上赤岩村を結ぶ古利根川にあった渡し場。現在の越谷市斎場のあたり。

加藤氏

ばば渡し場は、戦後のカスリーン台風が関東を襲った昭和22年(1947)ごろまで、行なわれていました。(越谷市郷土研究会顧問・加藤幸一氏)

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千代田橋から市役所前中央通りを南西に直進。「市立病院」交差点を左折して不動橋通りを進む。