境内の石塔

境内の石塔|薬師堂・越谷市神明町

続いては、境内にある石塔や石塔などを調べた。

戦勝祈念碑

戦勝祈念碑|薬師堂・越谷市神明町

自然石の戦勝祈念碑。大正7年(1918)建立。最頂部に二体の座像が点刻されている。向かって左は弘法大師、右は聖観音。
 
中央の碑文には、「祈皇軍大勝 為軍人安全」「西國秩父坂東四國八十八ヶ所」「神社佛閣湯殿山月山羽黒山千社巡拝」と刻まれている。
 
裏面には「大正七年十月十七日」の銘と願主の名前が見られる。この石碑は、第一次世界大戦の戦勝を祈念して建てられたものと思われる。が、第一次世界大戦は、大正7年11月11日に終戦を迎えているので、この戦勝祈念碑は、終戦の1か月前に建立されたことになる。

第一次世界大戦とは

三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として起こった世界的規模の戦争。1914年6月のサラエボ事件をきっかけに開戦。同盟側にはトルコ・ブルガリアなどが、協商側には同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加した。4年余りにわたってヨーロッパ戦場を中心に激戦が続いたが、1918年11月、ドイツの降伏によって終結。翌年のパリ講和会議でベルサイユ条約が成立した。(※8)

※8 (出典)JapanKnowledge(https://japanknowledge.com)「第一次世界大戦」デジタル大辞泉 (2023年7月18日閲覧).

宝篋印塔

宝篋印塔|薬師堂・越谷市神明町

江戸中期・寛保2年(1742)造塔の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
 
上段の塔身には、金剛界四仏を表わす梵字が四面に刻まれている。東・ウーン(阿閦如来=あしゅくにょらい)南・タラーク(宝生如来=ほうしょうにょらい)西・キリーク(阿弥陀如来=あみだにょらい)北・アク(不空成就如来=ふくうじょうじゅにょらい)

この宝篋印塔は墓碑塔

下段の塔身には、建立年月(寛保二壬戌二月十九日)と建立者名のほか、6人の戒名が刻まれている。時代は、江戸中期、享保18年(1733)明和6年(1769)寛保元年(1741)寛保2年(1742)から江戸後期、文政9年(1826)天保2年(1831)まで。
 
本来、宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらにきょう)を書いて納めるために建てられた塔だが、墓碑塔としても建立されている。この宝篋印塔は、先祖を供養するための墓碑塔として建てられた。

手水鉢

手水鉢|薬師堂・越谷市神明町

古びた手水鉢(ちょうずばち)が一基。年代は不詳。寄進者と思われる人たちの名前がたくさん刻まれているが風化がひどく、ほとんど読みとれない。かろうじて「池田屋彌右衞門」「道具屋萬吉」「油屋□□□」の文字が確認できる。
 
もかしたら、江戸時代、この場所が、清光坊(せいこうぼう)と称した寺院だったころのものかもしれない。

薬師堂の墓塔

撮影年月日|2023年7月15日

薬師堂の場所

薬師堂・神明二丁目集会所|越谷市神明町二丁目

薬師堂・神明二丁目集会所の住所は、埼玉県越谷市神明町2-301( 地図 )。郵便番号は 343-0805。場所は、神明橋西詰・神明町二丁目交差点から元荒川の上流に向かって、越谷流山線(埼玉県道・千葉県道52号)を200メートルほど直進。Y字路を左に折れた先にある。

参考文献

本記事を作成するにあたって、引用した箇所がある場合は文中に出典を明示した。参考にした文献は以下に記す。

参考文献

加藤幸一「出羽地区の石仏」平成15年度調査/平成28年4月改訂(越谷市立図書館蔵)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青娥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
庚申懇話会編『日本石仏事典(第二版新装版)』雄山閣(平成7年2月20日発行)
外山晴彦『サライ』編集部編『野仏の見方』小学館(2003年6月10日発行)