歴史

案内板

砂原の鎮守・久伊豆神社の創建はつまびらかでないが、拝殿前の案内板には「創建年代は(安土桃山時代)天正元年(1573)のことである」と記されている。
 
江戸後期・幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』砂原村の項(※6)に記載されている寺社は、聖動院・稲荷社・天神社・不動堂・阿弥陀堂で、久伊豆神社の名前は見えない。
 
隣村の小曽川村にも久伊豆神社があるが、『新編武蔵風土記稿』小曽川村の項(※7)を見ると「久伊豆神社 当村及び砂原村の鎮守とす」と書かれていることから、小曽川村の久伊豆神社を砂原村と小曽川村の鎮守として祀っていたようである。
 
だが、案内板に「(砂原久伊豆神社の)創建年代は天正元年(1573)」とうたっていることから、『新編武蔵風土記稿』が編さんされた当時、ここに久伊豆神社が鎮座していなかったとは考えにくい。
 
『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』(※8)にも「この時期に当社(砂原久伊豆神社)が存在しなかったことは考えがたく、何かの事情で(新編武蔵風土記稿が)記載を漏らしたものであろう」と書かれている。
 
よって、砂原久伊豆神社は、少なくとも江戸後期にはこの場所にあった、と考えるのが妥当であると思われる。

※6 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「砂原村」151頁

※7 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「小曽川村」146頁

※8 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「砂原久伊豆神社」1212頁

砂原村の鎮守は小曽川の久伊豆神社だった

小曽川久伊豆神社

上の写真は小曽川久伊豆神社

『新編武蔵風土記稿』小曽川村の項に、「久伊豆神社 当村(小曽川村)及び砂原村の鎮守とす、古へ(いにしえ)爰(ここ)は砂原村の地内なりと云う」(※9)とある。

※9 『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)「小曽川村」146頁

越谷市郷土研究会・副会長の秦野秀明氏は、『新編武蔵風土記稿』のこの記載を支持し、かつて砂原村の鎮守は現在の小曽川久伊豆神社だった。当時は小曽川村はなかった。その後、砂原村から小曽川村が分村し、両村の鎮守は、現在の小曽川久伊豆神社になった(※10)と述べている。

(※10)上記については秦野氏が「旧砂原村と旧小曽川村の鎮守から推定した両村の来歴」で詳しく論考している。リンク先を以下に示す。
http://koshigayahistory.org/221018_sunaharamura_h_h.pdf

沿革と祭神

砂原久伊豆神社

砂原村は、東組と前原組に分かれていた。東組が砂原久伊豆神社、前原組が稲荷神社を鎮守社としていたが、大正2年(1913)に、前原組の稲荷神社を東組の久伊豆神社に合祀し、久伊豆神社を砂原の鎮守社とした。
 
拝殿前の案内板によると、主祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)。別名・大己貴神(おおあなむちのかみ)。合祀神が、稲荷様として知られる倉稲魂命(うかのみたまのみこと)という。
 
砂原久伊豆神社の本殿には、前原組の鎮守・稲荷神社を合祀したさいの「江戸中期・安永6年(1777)2月奉納の『倉稲魂神社』(うかのみたまじんじゃ)と刻まれた社号額と、江戸後期・天保12年(1841)6月奉納の鰐口(わにぐち)が、残されている」(※11)

※11 埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「砂原久伊豆神社」1212頁

境内の風景

参道入口

続いて境内の風景を紹介する。

一の鳥居

一の鳥居

一の鳥居は花崗岩(かこうがん)で造られた石鳥居。鳥居の形は明神(みょうじん)型。神額には「鎮座」と浮き彫りされている。

幟立て

幟立て

一の鳥居をくぐると幟立てがある。アルミ製のポールを二本の石柱(幟枠石=のぼりわくいし)で固定してある。のぼり立ての先に朱塗りの二の鳥居、その奥に拝殿が見える。

二の鳥居

二の鳥居

二の鳥居は朱塗りの木鳥居。鳥居の形は両部(りょうぶ)型。朱色の神額には「奉献 久伊豆神社」と金色の文字で書かれている。

鳥居についての逸話

明治45年(1912)、小曽川と砂原の村境にあった天神社が、小曽川久伊豆神社に合祀されたが、そのときに、天神社の鳥居の所有権をめぐって、両村で争いになった。そこで、小曽川と砂原の村人たちが綱引きをして所有権を決めることになり、砂原村が勝利。天神社の鳥居は砂原久伊豆神社に渡った、と伝えられている。

上記の逸話は、埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)1202頁から抜粋・要約した。

参道

参道

二の鳥居を抜けた参道右手には、ご神木や手水舎(ちょうずや)などが見える。

手水舎

手水舎

朱塗りのトタン屋根の手水舎(ちょうずや)。奉納と浮き彫りされた手水石(ちょうずいし)は、明治21年(1888)に奉納された(※12)もの。

※12 手水舎の碑銘が薄れて読みとれなかったので、『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「砂原の集落と久伊豆神社」の項169頁に書かれている「明治二十一年の御手洗石」に従った。御手洗石は手水石のこと。

ご神木

ご神木

手水舎の隣の巨木はご神木のイヌマキ(犬槙)。樹齢は不明だが樹勢は旺盛。神々しい。

御神燈

御神燈

拝殿前の御神燈は、平成25年(2013)10月に、砂原久伊豆神社の氏子一同によって新しく寄進されたもの。それまでは、江戸後期・天保13年(1842)の御神燈(※13)が立っていた。

※13 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「砂原の集落と久伊豆神社」169頁に「天保13年(1842)の御神燈」とある。

拝殿

拝殿

拝殿は瓦葺きの木造格子戸造り。格子戸の上にしめ縄、軒下の中央に鈴が吊られていて、鈴には鈴緒(すずお)が添えられている。

本殿

本殿

瓦葺きの本殿は瑞垣(みずがき)で囲まれている。簡素な造りだが神聖な気を感じる。

昭和60年に拝殿が全焼

社殿は昭和18年(1933)に改築された(※14)が、「昭和60年(1985)に拝殿が火災で全焼。殿内にあった絵馬や額などがすべて焼失してしまい、往時の信仰をとどめものはほとんど残っていない」(※15)とのことである。

※14 『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)「砂原の集落と久伊豆神社」169頁に「現在の神殿は、昭和18年(1933)の改築である」とある。

※15 『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)「砂原久伊豆神社」の項、1212頁

参拝情報

砂原久伊豆神社|越谷市砂原

砂原久伊豆神社の住所は、埼玉県越谷市砂原1455( 地図 )。郵便番号は 343-0803。場所は、朝日バス「砂原」バス停(岩槻越谷線)の北50メートル。大砂橋の東、元荒川右岸沿いの土手下にある。

参考文献

本記事を作成するにあたっては、関係書籍や調査報告書も参考にした。参考にした文献を以下に記す。引用した箇所については記事中に引用箇所を明記した。

参考文献

加藤幸一「荻島地区の石仏」平成14年度調査/平成29年3月改訂(越谷市立図書館蔵)
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社(北足立・児玉・南埼玉)』埼玉県神社庁(平成10年3月31日発行)
越谷市史編さん室編『越谷市金石資料集』越谷市史編さん室(昭和44年3月25日発行)
越谷市史編さん室編『越谷ふるさと散歩(上)』越谷市史編さん室(昭和54年8月2日発行)
『新編武蔵風土記稿 第十巻(大日本地誌大系)⑯』雄山閣(平成8年6月20日発行)
日本石仏協会編『石仏巡り入門―見方・愉しみ方』大法輪閣(平成9年9月25日発行)
日本石仏協会編『新版・石仏探訪必携ハンドブック』青砥書房(2011年4月1日発行)
日本石仏協会編『日本石仏図典』国書刊行会(昭和61年8月25日)
庚申懇話会編『日本石仏事典』(第二版)雄山閣(平成7年2月20日発行)
秦野秀明(2022)「旧砂原村と旧小曽川村の鎮守から推定した両村の来歴」(http://koshigayahistory.org/221018_sunaharamura_h_h.pdf)(2022年10月18日閲覧)