境内の石仏

境内の石仏

境内には、六地蔵のほか板碑型文字庚申塔、宝篋印塔、念仏供養塔などがある。

板碑型文字庚申塔

板碑型文字庚申塔と墓石

墓地の入口、ブロック塀際にあるのは板碑型の文字庚申塔。隣の小さな石塔は江戸前期に亡くなった子どもの墓塔。
 
板碑型文字庚申塔の中央最頂部には、地蔵菩薩を表わす梵字「イ」、その下に「奉為造立石塔一宇庚供養二世安楽也」と、主銘が刻まれている。下部(主銘の両脇)には、願主24人の名前が見える。24人のうち法名が14人、俗名が10人。

越谷最古級の庚申塔

板碑型文字庚申塔

向かって右側の銘に「承応三年甲午」(じょうおうさんねん・きのえうま)とある。上の写真の黄色い枠内参照。承応は江戸前期。承応3年(1654)に造立されたこの板碑型の庚申塔は越谷市内で最古級。貴重な史料といえる。

越谷市内最古の庚申塔は、

大成町にある承応2年(1653)の板碑型文字庚申塔とされ、越谷市の文化財に指定されているが、石塔に刻まれている年号が「承応 二年 甲午」となっている。承応2年の干支は甲午(きのえうま)ではなく、癸巳(みずのとみ)である。年代と干支が合致しない。

これについて越谷市郷土研究会・顧問の加藤幸一氏は「承応二年の干支は癸巳でなくてはいけないのに甲午となっている。当時は年代より干支のほうが生活に密着しているので、干支のほうが信頼できる。甲午と刻まれた大成町の庚申塔は、承応二年ではなく承応三年の刻み違いの可能性が高い」(※6)と、述べている。
 
加藤氏の考証に従えば、越谷市内最古といわれている大成町の承応2年の庚申塔は、承応3年造立の可能性が高いので、谷中観音堂の承応3年の庚申塔も大成町の庚申塔とともに越谷市内最古と推定できる。

※6 「出羽地区の石仏」加藤幸一(平成15年度調査/平成28年4月改訂)越谷市立図書館所蔵、40頁

地蔵菩薩と六地蔵

六地蔵

瓦屋根の鞘堂(※7)に、六地蔵と地蔵菩薩が納められている。中央に江戸中期・享保6年(1721)造立の丸彫り地蔵菩薩立像、両脇に、隅丸型の石塔に浮き彫りされている六地蔵が三体ずつ並べられている。六地蔵の造立年代は不詳。
 
なお鞘堂(さやどう)は平成元年(1989)年3月に新しく再建された。

※7 鞘堂(さやどう)とは、石塔や石仏などを風雨から保護するために外側から覆うように造った簡易なお堂のこと。覆堂(ふくどう)とか覆屋(おおいや)とも呼ばれる。

男の子の墓塔

男の子の墓塔

鞘堂の中、向かって右端の手前に、合掌している地蔵菩薩立像が浮き彫りされている舟型光背型の石塔が置かれているが、これは、江戸中期・享保14年(1729)に造立された男の子の墓塔。
 
正面最頂部に地蔵菩薩を表わす梵字「カ」、「影幻童子霊位」と刻まれている。状態がいいので、風雨にさらされることなく、鞘堂の中にずっと安置されていたのかもしれない。または後世、子孫の誰かが再建したものか。

宝篋印塔

石垣の上に建てられた宝篋印塔

墓地の塀際、鐘楼堂(しょうろうどう)の隣にあるのは、江戸中期・安永2年(1773)造塔の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。石垣をほどこした上に建てられている。

構造

宝篋印塔

宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」(ほうきょういんだらにきょう)を納めた供養塔。構造は、下から基壇・基礎・塔身・笠と積み上げて、いちばん上に相輪(そうりん)がある。塔身が塔の中心。

塔身の四面に四仏の種子

金剛界四仏の梵字

この宝篋印塔の塔身は丸みを帯びていて、四面に、金剛界四仏(※8)を表わす梵字(種子=しゅじ)が刻まれている。上の写真の左から「ウン」「キリーク」「タラーク」「アク」

※8 金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)とは大日如来を囲む四方の仏。東は阿閦如来(あしゅくにょらい)梵字はウン、西は阿弥陀如来(あみだにょらい)梵字はキリーク、南は宝生如来(ほうしょうにょらい)梵字はタラーク、北は不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)梵字はアク

念仏講供養塔

石灯籠が載っている念仏講供養塔

石灯籠が載っている念仏講供養塔。場所は観音堂に向かって左側の手前。江戸中期・元禄8年(1695)造立。石塔型式は灯籠型。

火袋

石灯籠の四角い火袋(ひぶくろ)の部分を見ると、正面に三つ穴、左側面に三日月形の穴、右側面に丸い穴がひとつあいていて、裏側は四角い穴の火口(ひぐち)になっている。

正面の銘

正面の銘

下の石塔(竿の部分)、正面の最頂部に、阿弥陀三尊を表わす梵字「サク」(勢至菩薩)「キリーク」(阿弥陀如来)「サ」(観世音菩薩)が刻まれていて、その下に「念仏講供養」と、主銘が刻まれている。脇銘に「元禄八乙亥年」「六月十八日」とある。

左側面の銘

左側面の銘

竿の部分、左側面には「延宝六午年ヨリ宝暦六子年迄七拾九年成」とある。

右側面の銘

右側面の銘

竿の部分、右側面には「観音堂再建立供養」の主銘と、「宝暦六丙子年」「十一月吉日」と刻まれた脇銘が確認できる。

左側面と右側面に刻まれた銘文から、観音堂の再建が、江戸初期・延宝6年(1678)から江戸中期・宝暦6年(1756)まで、数え年で79年かけて行なわれ、それを後世に伝えるために、追刻したことが分かる。

現在の観音堂の建立は江戸時代?

観音堂と観音堂再建立供養塔

また、『ふるさと散歩(下)』には、「石灯籠には、宝暦6年(1756)観音堂再建と追刻されているので、この建物(観音堂)は部分的には補修されているものの宝暦6年の建立になるものかもしれない」(※9)と、記されている。
 
観音堂の屋根は、昭和50年代に草葺きから瓦葺きに葺き替えられたが、その他の部分は『ふるさと散歩(下)』に書かれているように、宝暦6年建立時のものかもしれない、という思いもめぐってくる。

※9 『越谷ふるさと散歩(下)』越谷市史編さん室(昭和55年4月30日発行)「谷中西福院」189-190頁