藤助河岸跡

藤助河岸跡

第7ポイントの藤助河岸跡(とうすけかしあと)に到着。
 
かつて綾瀬川の舟運が盛んなころ、この場所に、藤助河岸と呼ばれる河岸場があった。旧日光街道と綾瀬川が交差するという地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場のひとつとして栄えたが、大正9年(1920)、東武鉄道に越ヶ谷駅が開設されたのを機に衰退。昭和初期に廃止さた。

藤助酒店

藤助酒店

藤助河岸跡から道を隔てたはす向かいにある酒屋は、藤助河岸を経営していた家の子孫が営む藤助酒店。二階が格子になっている木造の町屋造りが歴史の長さを物語っている。

移動|愛宕橋

愛宕橋

藤助河岸跡を出て約20メートル。手前の白い手すりの橋は愛宕橋(あたごばし)。その先の橋は綾瀬川に架かる蒲生大橋。

旧・出羽堀の終点

旧出羽堀の終点

愛宕橋の下を流れるのは蒲生愛宕川(がもうあたごがわ=旧・出羽堀)。この場所で蒲生愛宕川は綾瀬川に落とされる。いわばこの場所がかつての出羽堀の最終地点となる。ちなみに現在の出羽堀は、1.2キロほど上流の出羽堀樋門ゲートから綾瀬川に注がれている。

石仏群

石仏群

愛宕橋の手前を右へ。階段を降りるとフェンス沿いに石仏が並んでいる。手前から「成田山」道標石塔・十三仏供養塔・不動明王像・六地蔵。どの石塔も建立されたのは江戸時代。年代や銘文などは割愛。
 
雨脚が強くなってきた。

傘をさしながらの写真撮影が困難だったので、以下、蒲生の一里塚と愛宕神社の写真は、2022年9月10日、下見のとき(快晴時)に撮影したものを使用。

蒲生の一里塚

蒲生の一里塚

石仏の横手にある小山は蒲生の一里塚(がもうのいちりづか)
 
一里塚とは、江戸時代、街道沿いに一里(約4キロ)ごとに設置された塚のこと。塚の上にエノキやマツなどを植えて、距離を示す目印や旅人の休息の場とされた。蒲生の一里塚は埼玉県内の日光街道筋に現存する唯一の一里塚で、埼玉県の史跡にも指定されている。
 
江戸時代は、この場所に、日光街道を挟んで二基の一里塚があった。

愛宕神社

愛宕神社

一里塚の上には現在、愛宕神社(あたごじんじゃ)が祀られている。江戸後期、幕府が編さんした絵地図「日光道中分限延絵図」によると、愛宕社は一里塚にはなく、一里塚の隣に地蔵堂と並んで建っていたようである。

移動|旧日光街道

蒲生の一里塚をあとに、蒲生大橋を左に見て、旧日光街道に入る。左手は綾瀬川、右手は蒲生愛宕川(旧・出羽堀)。そのまま直進。

追分

追分

綾瀬川左岸側の土手道と、旧日光街道が分岐する地点に到着。ここはかつての追分(おいわけ)。追分から先の旧日光街道沿いに茶屋が並んでいたことから、この街道沿いは茶屋通りと呼ばれた。現在も蒲生茶屋通りと呼ばれている。
 
綾瀬川左岸の土手道は、岩槻の城下町に通じていることから岩槻道(いわつきみち)と呼ばれた。また、かつては岩槻道の脇(旧日光街道側)を出羽堀が流れていて、追分に架かっている蒲生橋(がもうばし)の下を通って、現在の蒲生愛宕川の流路から蒲生大橋の横で綾瀬川に落とされた。
 
追分で、旧日光街道(蒲生茶屋通り)に別れを告げ、綾瀬川左岸沿いの土手道(岩槻道)を歩く。土手道の左下の整備された遊歩道は綾瀬川緑道。

虚空蔵堂|蒲生愛宕町第二会館

虚空蔵堂|蒲生愛宕町第二会館

岩槻道の右手、土手下に、蒲生愛宕町第二会館(がもうあたごちょうだいにかいかん)と、祠(ほこら)が見える。祠の前には 3基の石塔が並んでいる。
 
この祠は、虚空蔵堂(こくうぞうどう)と呼ばれ、もともとは土手道(岩槻道)にあったが、綾瀬川緑道を整備するさいに、この場所に石塔とともに移された。
 
中央の観音像を戴いた石塔には「これよりぢおんじミち 四里」(これより ぢおんじミち よんり)と彫られている。この道しるべも、もともとは土手道にあった。この土手道が岩槻の慈恩寺(じおんじ)に通じる岩槻道である証にもなっている。

綾瀬橋・越谷浄化施設

前方左手に綾瀬橋が見えてきた。右手に見えるクリーム色の施設は越谷浄化施設。綾瀬川の水をきれいにするために設けられている。
 
綾瀬橋を通る足立越谷線(東京都道・埼玉県道49号)を渡って、右手に見える遊歩道(西幹排緑道)に入る。左手、綾瀬川の左岸沿いの道は、槍先(やりっちゃき)通り。かつての岩槻道だ。

西幹排緑道

西幹排緑道

この遊歩道(西幹排緑道=にしかんぱいりょくどう)は、かつての出羽堀の流路跡。綾瀬川の左岸を岩槻道(現・槍先通り)と共に並行して流れていた出羽堀(現・綾瀬川第1号雨水幹線)の流路を暗渠(あんきょ)として改修し、暗渠の上を緑道として整備したのが西幹排緑道。
 
かつての出羽堀の上を歩いていることになる。

道しるべの石塔

道しるべの石塔

100メートルほど歩いた左手に石塔が建っている。後ろ向きになっているので前に回って見る。正面に「成田山 一里」、左側面に「越ヶ谷江一里」「草加江一里」と刻まれていることから、この石塔は道しるべだ。建てられたのは江戸末期の元治2年(1865)。
 
この場所に道しるべがあるのは不自然。越谷市郷土研究会の加藤幸一氏は、この道しるべは「本来は日光街道と岩槻道の追分にあったと思われる」(※5)と、述べている。

※5 「蒲生地区の石仏」加藤幸一(平成18年度調査/平成31年7月改訂)越谷市立図書館所蔵、33頁

道しるべをあとに西幹排緑道を進む。